Topics&Columns(2001年1月22日)
-ワイン界のロッキー・バルボア-
パーカーは決してこれが自分の意図するものではないという。彼が最初のフランス旅行から戻ってから、大学の友人たちと一緒にワインを飲むようになった。彼はワインについて書かれたイギリスの書物を読み、歴史的な話題については面白いと感じたが、味わいという点については全く役に立たなかった。ロシア製の皮の味が感じられるという表現は何を意味しているのだろう?もっとひどいのは、比喩を使った表現だった。「このワインは美しい女性の晩年のような味わいだ。メークが少し濃いのだが、それでも顔の皺を隠すことができない・・・」パーカーが知りたかったのは、このワインを買うべきなのかどうかということだった。
パーカーは大学で、ゴードン・プランジの作文の授業を受講した。プランジは彼に文章は簡潔でわかりやすいものでなくてはならないと教えた。彼はワインを飲みつづけていた。22歳のときにパットと結婚し、夏には彼女と一緒に再びヨーロッパを訪れた。大学を卒業後、メリーランド大学のロースクールに入学した。若い夫婦は安アパートの半地下の部屋に引っ越したが、そこは温度が常に華氏55度に保たれていて、ワインにとっては最高のコンディションだった。パーカーは趣味がますます昂じていった。パットも若かったので一緒にその趣味を追及したいとは思っていたが、パーカーがワインにお金を使いすぎることでよくケンカになった。彼女は公立学校でフランス語の教師をしていた。パーカーはロースクールでは幽霊生徒として知られていたと私に話してくれた。彼は深夜番組を見るために夜更かしするので午前中はいつも寝ていたのだ。だがある授業で、出席をとるようになり、そのクラスにだけはどうにかして出席するようになった。その授業は70年代当時ホット・トピックだった利害の対立についてで、ウォーターゲート事件の弁護士であったサム・ダッシュが教えていた。パーカーはこれに魅せられ、この新しい概念をワインにあてはめて考えてみた。なぜ水っぽくて味気ないワインがさも違うかのように書かれているのか。消費者優先主義の考え方を身に付け始めた彼はそのことに怒りを感じるようになった。だまし討ちに会ったような経験を何度もしていたからである。
パーカーは1973年に司法試験に合格し、バルティモアで法律関係の仕事についた。だが、この仕事は、法律の仕事が退屈なものかもしれないという、かねてからの懸念を確認させてくれるものでしかなかった。機会を見つけてはパットとヨーロッパに脱出した。その中でもパットが通訳してくれ、シャトーでいろいろな話やワインをテースティングさせてもらえるフランスによく行った。パーカーはとてもまじめでいつもメモをとった。パットも彼の世話をするのを楽しんだ。ワインを趣味にするにはお金がかかったが、彼らにはあまりお金がなかった。彼らはできるだけ身軽にして夕食も安くすませ、一日10ドルで過ごすようにして旅行した。質素な生活をした日々を、今ではなつかしそうに振り返る。
1978年、パーカーはそれまでの経験を活用することにした。彼は「ワイン・アドヴォケイト」の第一号を書き上げた。もちろん最初のページには彼の消費者至上主義者としての信念がかかれていた。彼は複数のワインの小売業者から買ったメーリングリストをもとに、6500通のダイレクトメールを無料で配った。そのうち、600人が購読してくれることになった。この数字はパーカーにとっては期待はずれだったが、ダイレクト・メールの標準的なレベルからすると成功と言える数字だ。第2号では(これが人々がはじめてお金をだした号になるわけだが)、工業生産的なカリフォルニアのブドウ畑について痛烈な批判を書いた。ワインが味気なく単調でどれも似たような味わいになっている元凶であり、大量に流通させるためであり、ビジネスリスクを抑えるためのシステムだと批判した。当初、若干の反論があったが、それも受け入れられた。「ワイン・アドヴォケイト」の購読数も増え始めた。それでもパーカーは、弁護士としての収入で生活を支えていかなくてはならなかったが、ワイン・アドヴォケイトが精神的な自立を保っていることにとりあえず満足していた。
こういう自立性は、他の多くの批評家にとって必ずしも重要な要素ではなかった。彼らに対してパーカーは、しだいにモラルという意味でも野心という意味でも軽蔑するようになった。この感情はまもなく一方通行ではなくなり、その憎悪の勢力はかなり強くなった。如才ないワイン・スペクテーターなどではパーカーの紹介は決してせず、彼の名前もほとんど載ることがなくなった。パーカーの名前が知られる前、イギリスの批評家がロンドンで彼に声をかけてきて、こういったことがある。「アメリカに住んでいると、一級のボルドーを取り寄せるのには苦労があるだろう?」
パーカーは聞き返した。「どういう意味だい?」
その批評家は驚いた様子だった。「君は毎年ラ・ツールやラフィット、マルゴーを送ってもらっていないのかい?」
「いや」パーカーは答えた。「たぶん私は馬鹿にされているんだろう。」
パーカーは自分の読者が馬鹿にされていると感じた。だがその事実には驚かなかった。ボルドーでは公然の秘密だったからだ。ボルドーでは、批評家たちの車のトランクは有名なシャトーでは自動的に開き、ボトルで一杯になるまで閉まらないないと言う話をよく聞くのだ。批評家はコンサルタントであったり、輸入業者だったり、ワインの広告で成り立っているワイン雑誌に寄稿しているジャーナリストだったりする。問題は彼らがみな生活していかなくてはならないことだ。こういう状況は、英語で「幅のある"ワンダフル"」と呼ばれる批判のテクニックにおちいりやすい。フランス語で似たような表現に「おぼれかけた魚」というのがあるが、両者は若干の違いがある。後者お方は、フランス語が複雑でよりわかりにくい文章であることに関係している。
メドックの中級のシャトーで昨年の春にパーカー・ポイントをまっていたとき、皮肉っぽいワインメーカーが、フランスの批評家のほとんどを「いやらしい」と表現した。彼が言うには、「彼らはぼくらのワインを自分達の文章力をみせびらかす道具にしているだけだ。"ほら、私の文章はすばらしいだろう?ほら、なんて知的なんだろう"ってね。だけど全部読んであなたはこう言うと思うよ。"これは何についての文章だい?ワイン?車?それとも香水かい?"」
パーカーの文章では間違えることはない。始めてから4年経った1982年には、ワイン・アドヴォケイトは7000部数になっていた。そこにボルドーの1982年のヴィンテージが登場したのだが、この若いワインは濃く、パワフルで、フルーティであった。パーカーが1983年の春にその「先物」をテースティングしてアメリカに戻る途中、できるだけ早く家に戻って今発見したものを文章にしたいと思い、飛行機が落ちないことを切に祈った。これは彼の人生で最大のスクープであり、このヴィンテージが歴史的にも最高のワインのひとつとなるものだったが、「ワンダフル」のヴァリエーションでしか表現しない批評家達はほとんどが過小評価していた。パーカーは読者に1982年のヴィンテージを買うように薦め、かなりの読者がそれに従った。大金がかかっていた。有名な批評家が1982年は酸味が少ないので、うまく熟成できないだろうと評価した。簡単に言えばこのワインはあまりに早くから出来すぎだということなのだ。だがパーカーは逆だった。最高のヴィンテージは(例えば61年、49年、47年)最初から均一で欠点がなく、82年もまさにそういうワインだと考えた。
彼のキャリアにとっての一大事でもあり、彼はボルドーに戻って過去について質問を始めた。シャトー・オー・ブリオンに関する記述で、彼は次のような日記を発見する。1929年というとても有名なヴィンテージで、当時若かったこのワインがあまりに強く、熟成に耐えないのではないかという危惧が記されているものだ。そのワインは50年たったいまでも素晴らしいと考えられていた。彼は再び1982年をテースティングしなおし、その素晴らしさに目をみはった。モンクトンの自宅に戻ってからも、自分の前言を取り消さず、その主張を繰り返した。1984年にワインがボトルづめされる頃には彼の主張が正しかったことが誰の目にもあきらかになっていた。逆の立場にたっていた批評家の多くはその地位が失墜することになり、ひどい場合には職を失うものもいた。ワイン・スペクテーターが1982年の特集を組む頃には、これらのワインは市場にはなくなっており、かなり高価になっていた。パーカーの名声は確立した。彼の読者の中にはパーカーのアドバイスに従って金持ちになったものもいた。金持ちにはならずとも、単にいいワインを安い値段で手に入れることができたものもいた。ワイン・アドヴォケイトの購読者数は一気に1万を超え、パーカーは弁護士を辞めた。数週間後、彼はニューヨークで最初の本の出版契約にサインをした。列車で自宅にもどる途中、まるで自分が映画「ロッキー」のシルベスタ・スタローンのような気分だった。(続く)